よくもまあ、こんなにも次々とややこしい問題が起きるものだと、驚いてしまう相撲界だが、今回の「女人禁制問題」については、メディアの偏向ぶりが凄まじいという感じだけが残って、とても気持ち悪い。
巡業会場の土俵上で、挨拶中の市長が突然倒れてしまった、という今回の事件。よくご存知の方も多いだろう。
死にそうな人の横で「降りろ」「女性蔑視だ」
一刻を争う状況を察知した看護師の女性が、土俵に駆け上がって救命処置を施した際に、「女性は土俵から降りて下さい」というアナウンスが繰り返された、ということだが、これをもって、相撲界には女性蔑視の思想が巣食っているとか、そんなことまで言い出したら、ピンボケも甚だしいと思うのだが…。
「そんなもんだ」と受容してしまう、ある種のユルさがあった方が、世の中としては健全度が増す。
当のアナウンスを担当していたのは、若い行司さんとのことだが、僕が想像するに、ほとんど子供と言ってもいい時分から「たとえ部屋の女将さんであろうとも、女性は土俵に上がれない」と叩き込まれて育ってきた人だ。
その人が、観客の中から「女が土俵に上がってええんか?」という声が立ったのを聞いて、「あっ、そうだ」と機転を利かしたつもりが裏目に出てしまった、というただそれだけのことだ。
理事長は、「人命が掛かった状況では、不適切な対応であった」と謝罪している。土俵がけがれたので、イチから作り直した訳でも、御祓した訳でもなく、塩をまいて掃き清めた。そりゃ、塩くらい撒くだろう。
そんな世界があっても別にええやん
そもそも相撲は、五穀豊穣を願って神様に力比べをお見せして献げた、というところが発端らしいが、それとて諸説あって怪しいものだと言える。その神様は女性なので、女性が土俵に上がると嫉妬される、なんて話になってくると、こじ付けっぽさが急上昇だ。
でも、その真偽を確かめたところで、何の意味があるというのか。「そんなもん」で良いではないか。そういう考え方のもとで、数百年にわたって伝統が守られている、そのこと自体に感じる畏れが尊いのであって、そこに科学的根拠を求めるかのような視点のズレ度合いには、呆れ果てる。
「女が喚いている」って思われないようにした方がいい
こともあろうに、この話に宝塚市の女性市長が食いついた。土俵下での挨拶の冒頭に、「悔しい」と発言したそうだ。
「黙ってろ!」と言いたいわけではない。それこそ神聖な土俵のすぐ下である。相手に対するリスペクトが欠け落ちた中では、ただ薄っぺらい印象だけが残りはしないか。問題提起をしたつもりだろうが、最低限のTPOすらわきまえられなくては、話にならない。
この話には、海外のメディアも乗っかっているそうで、波紋は広がっているようだ。確かに「女性差別」という観点に立てば、問題はあるかも知れない。でも、ここにそんなものを引っ張り出してくる感覚に、違和感たっぷりなのだ。
そんなに軽んじてはいけない
フェンウェイパークのフィールドに、或いはウィンブルドンの芝のコートに、仮に「入ってもいいよ」と言われても、喜び勇んでホイホイ踏み込んで行けるだろうか?
僕なら入れない。そこは極めて神聖な場所で、立ち入るに相応しい人間のみが立つべき、という考えを持っているからである。
横綱に品格を求めるのなら、その周りだって当然格式を尊重し、品位をもって見守ることが要求されて然るべきだろう。何もかも垣根を取っ払ってしまうことが、平等だとでも言うつもりだろうか?
コントロールする側とされる側
女性蔑視なんて、一言も言ってはいない。むしろ女性は大好きだ。「そんなもんだ」と受け入れてしまう方が、ずっと豊かで品があると感じる。改革を迫る方が進歩的だ、とでも言いたげに煽動するマスコミには、ウンザリを通り越して哀しさを覚える。
ジャーナリズムが落ちぶれると、民度が崩壊するぞ。ホントに恐ろしいのだ。
森下昌彦(えむもりさん)
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