我が夫婦はともに、〝片付け上手〟ではない。残念ではあるが、れっきとした事実だ。認めざるを得ない。
だから、小さな子供が居るので仕方ないことを差し引いたとしても、決して受け入れたくはない惨状が目の前に広がっている。
何もしないのは論外
今の時代の夫は、家事や子育てを奥さんだけに押し付けることなんて、絶対に出来ない。家庭生活の長期にわたる安寧を最優先すべき時、必須条件として挙げられるのは、まず第一に〝奥さんの機嫌〟なのである。
従って、御多分に洩れず、例えば休日だからといって家でゴロゴロしていることが無条件に許されるなんてことは、まあ無い。
食器洗いやお風呂掃除、ゴミ捨てなんかは比較的抵抗なくしているつもりだが、妻的には物足りない部分も多いのだろう。協力への謝意の言葉なんかないし、褒めてもらえることも無い。何処が物足りないのだろうか?
イヤイヤやっても感謝されません
ある日、掃除機をかけようとしたが、リビングに取り掛かろうとしたところで、気が失せた。あまりに散らかっていて、どうしようもない。「四角い部屋を丸く掃く」のはイヤだ。掃除機をかけられる状態に持っていくことを想像するだけで、途方もない。取り敢えず、まだ〝マシ〟な寝室だけ済ませて、後は妻に丸投げしようとしたら激怒された。
僕の言い分はこうだ。
ここに散らかっているものは、ほとんど妻のモノと子供たちのモノだ。そのおかげで僕が不愉快な目に会うのは御免被りたい。散らかした本人がまず、なんとかしろ。
妻の言い分も添えておこう。
共同で生活しているのだから、家事を分担しないでどうする?〝イヤだからしない〟が罷り通っては、秩序すら維持できない。そもそも、私だって散らかっているのはイヤだけど、頑張ってやっている。
妻だって苦しんでいる
仁王像の如く、これでもかというほど眉間に深くしわを寄せながら、罵倒の手を緩めない妻に底知れぬ恐怖を感じながらも、一方で僕は冷静にその言葉を噛み分けていた。
「私だって散らかっているのはイヤ」
そうか、僕は散らかっているのを「イヤ」だと感じる閾値が、僕と妻では決定的に大きく違う、と勝手に決めていたのかも知れない。
散らかったままでも、平気で掃除機がかけられる感受性を持ち合わせている訳ではないのだ。「イヤだけどやる」と「イヤだからやらない」の違いがあるだけだったのだ。
違いが明確になれば意外に受け入れられる
ここで僕に残された道はひとつ。
「捨てられない病」の妻の、フォロー役になること。何かと溜め込む性質の妻に代わって、僕がせっせと廃棄する役を買って出る。
決して黙ってやってはいけない。しっかりと「捨てる宣言」をした上で動こう。モノに対して比較的執着心の薄い僕が、適任に違いない。
反発を喰らうこと必至だろう。しかし、ちょうど良い頃合いのところを出し入れしながら、地道に続けて行くべきだ。
妻にもきっと、スッキリした部屋が「心地よい」と感じる瞬間がやって来る。
絆で結ばれた者同志じゃないか
そうだ。「一日一捨」をタスクにしよう。そして、いっぱいいっぱい話し合おう。何が心地よいと感じるのか、どんなことが不愉快だと感じるのか。そのあたりを擦り合わせていくのは、部屋の片付けとか、そんなことだけに留まるのではなく、夫婦関係を深めていく上でも、とても大切な作業に違いないのだ。
手を取って深めあいましょう
堀ちえみさんが、テレビで仰っていた。
家の中の〝動線〟には、とことん拘る。少しでも、「此処が引っかかる…」と感じる所があると、そのほんの小さな〝イヤな感じ〟が積もり積もって、心を歪める要因になり得る。家に居るのを苦痛に感じたり、夫婦間のいざこざの元に成りかねない。
なるほど、その通りだ。
いい仕事が出来るかどうかなんて、家庭環境の安定が前提としてあった上での話なのだ。そんなこと全く関係ないと思えるほどの強靭な精神は、少なくとも僕は絶対に持ち合わせていない。
森下昌彦(えむもりさん)
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