10歳の子供の命を守れなかった。
学校、教育委員会、児童相談所、多くの大人たちが虐待の実態を把握しながら、結果的にひとりの子供を死なせてしまった事件。
「仕事に対する熱意、誇りがない」が、とてつもなく恐ろしい事態に直結し得ることを露呈した。
成長のリバウンド?
日本人は「真面目で勤勉」が〝売り〟だと自分で思っているかも知れないが、実はそんな評価はされていない。
今それを言ってしまえば完全に嘘つきだが、嘘じゃない時代も確かにあった。
普通にしていれば右肩上がり。大人しく続けたら老後も安心。そんなマインドを刷り込まれ続けたら、腑抜けにされても仕方ない。
腑抜けにされて、時間を奪われ、死なない程度のギリギリの経済的充足で縛られる。
「やる気を出せ」なんて言われても、全くピンとこないだろうし、言う方も言う方だ。
「私達はいつまでこのクソつまらない仕事を続けなければならないのか?」 講談社の記事はこちら
工夫禁止?
妻が職場の愚痴を言い出したので聞いてみた。
ある作業に、ほんのわずかな工夫を加えることで、効率が良くなることが分かってきたのでそうしていたらしい。
すると、周りの何人かは「なるほど!」と真似するようになった。
しかし、他の何人かは「余計な工程が増えるから止めろ」と言い出した。「ただでさえ人手が足りないのに…」という主張である。
ここで少し考えてみた。
毎日同じことの繰り返しで、経験が積み重なっていく中である。量が増えていくことで、質が高まるのは当たり前だし、それが仕事なのだ。
報酬があるとか無いとかは関係なく、そうやって高まっていくのが人間の自然な姿で、「何時間拘束されたから幾ら」的な発想のみでは悲しいし、人として劣ってはいないだろうか?
今回の虐待事件の場合
そうは思いたくないが、あれだけの子供の訴えを目にして、「ピンっ」とも来ないのは、人間的素養が欠落している。
さらに、それを補うべき経験の量と熱意さえも、圧倒的に足りない。
悲しいが、どうかしているとしか思えない。
自分の今にのみコミットする
批判ばかりするのは止めよう。
他人を変えることは出来ないので、自分の行動のみにコミットするのが、僕の信条。
つまり僕がすべきは、
- 創意工夫
- 圧倒的行動量
- 進歩
これに集約される。
自己の研鑚にのみ励むことが、「自分勝手」と同義だとは思わない。完全に協調性を欠いていては論外だが、少なくとも自分が満たされた状態でないと、人の役に立つことは出来ないだろう。
もっと満たされた状態にある人が増えれば、不幸でやるせない今回のような事件が減るのではないか?
そう考え皆が前を向く世の中であって欲しい。そんな世の中の未来が、明るくないと思える筈もないのだから…。
森下昌彦(えむもりさん)
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