他人に勇気なんか与えてる場合じゃない。そんなこと考えんでもエエ。
高校野球の〝春の選抜〟が中止になったことの救済策として「交流試合」が開催されている。
僕は、その開会式での選手宣誓の文言が、なんとも「時代感」があって面白いと感じるのだ。
自分が満たされてこそ他人を巻き込むことができる
「被災された方々をはじめ、多くの皆様に明日への勇気と活力を与えられるよう、選ばれたチームとしての責任を胸に、最後まで戦い抜くことをここに誓います」
ひとことで言うなら、「立派すぎる」のだ。
僕の記憶の範囲内でしか言えないが、神戸の震災後あたりからだろうか、世相というか時代背景と、「お世話になった方々に感謝の気持ちを込めて…」みたいなフレーズがリンクし出したように感じる。
度重なる災害、そして東日本大震災で「絆」という言葉とともに、その流れはほぼ常態化している。
「悪い」と言っているのではない。
でも、今の若者はこんな事を日々感じながら、毎日厳しいトレーニングに取り組んでいるのだろうか?
ぶっちゃけ、そんな優等生ばかりでもあるまい。
ろくに勉強もせずに野球漬けの子も居れば、ヤンチャ過ぎて周りをヒヤヒヤさせている子も居るはずだ。
羨ましいよ…
そんなヤツらに「勇気を与える」なんて言われてしまうほど、大人達は落ちぶれてはいない。
勝手にやりゃあ良い。好きなものにガムシャラに打ち込めば良いだけなのだ。
感謝して欲しいなんて思わないし、勇気を下さいなんて思う訳ない。
オヤジはただ、彼らの好きなものにひたむきになれる姿を見て、勝手に勇気をもらっているに過ぎない。羨ましいのだ。
自分には、今もその情熱が残っているだろうか?と焦っているのかも知れない。
今が一番若い
将来の夢を、「人の役に立ちたい」「貢献したい」という立ち位置から見据えようとする人に、僕はもし言えるなら「本当か?」と声を掛けてみたい。
自分の将来だし、自分の人生なんだから、ベクトルは常に自分の方を向いていても良い気がする。それほどまでに打ち込める時期こそが、ホントはメチャメチャ貴重で、その結果として「貢献」できたらそれで良いじゃないか。
成功者になったかどうかよりも、好きなことに、周りが見えなくなるほど打ち込む時期があったかどうか?
振り返った時に、より満たされた安堵感を伴うのは、後者である。
だから、「やらなきゃ、イカン!」のだ。
あり得ないだろ、ってくらいやれる事に出会えるチャンスが多いこと。「若い」とは、そういうこと。
時間的に少なくなってきた僕のようなオヤジでも、怯まずにあらゆる場所に首を突っ込み続けること、それが「若さ」ってこと。
自分へのエールでもあるのだが、「若者に幸あれ」なのだ。
森下昌彦(えむもりさん)
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