妻が日々の子育てにイライラしている。
多少の後ろめたさを感じはするものの、僕に当たることで捌け口にしているのが、見てとれる。
そこで、こちらとしては〝苦し紛れの一手〟を打つ。
結果的には、〝モノで釣る〟という、最も古典的で姑息な方法を取ることになるが、思いのほか効果大なのだ。やってみて、損はない。
「買い物」と言うけれど、モノではなく実は「価値」を買っている
妻が、「財布が古くなってきた…」と漏らしていたのを思い出した。
僕たちは、もう何年も前の、ちょうど夏の盛りに出会ったので、このタイミングで記念のプレゼントでも良いではないか?と、ホントにふと思い付いたのだ。
どうせなら良いモノを買おう
もうお互いそんなに若くないし、普段持ち歩く物ひとつとっても、それなりの物でないと恥ずかしいという思いは、相当鈍感でもない限りある筈だ。
そこで、僕的には随分と奮発してみた。
いや、「奮発」と言うにはスケール感に乏しいかも知れないが、あくまでも「僕的には」という注釈付きだ。
コーチの財布。
アウトレットモールで買ったものなので、「目ん玉が飛び出るほど」の高額ではない。それでも、決して安いとは言えない。
しかし、絶対的な価格がどうこうの問題ではなく、得られる価値がそれ以上のものであるなら、特に今回は完全に〝ウェルカム〟なのだ。
価格と価値を天秤にかける
つまり、値札についている数字そのものではなく、それを手にした時の幸福感を重視するのだ。
妻の機嫌が直り、「ありがとう」の一言でもあろうものなら、それは、十分に「元が取れた」状態と言える。「確かに高いけど、安い」が、幸せな消費行動の根底には、必ずありそうなのだ。
「これ安いし、あっても困らんから買っとけ」的な買い方をすると、もう次の瞬間には、「何でこんなモン買ったの?」になってしまうことさえある。
これでは、不本意ながら「安いけど、高い」の世界に自分を囲い込んでいる。結果的に「安いけど、あんまり嬉しくないモノ」が身の回りに溢れるのだ。理想状態の対極である。幸せじゃない。
絞り込む
じゃあ、何でも高いものを買った方が幸せか?と問われれば、もちろんそうではない。
どこに拘るのかを、よく見極めた方が良い。例えば僕の場合なら、衣食住についてはどれも無頓着。最低限のものが確保されていればそれで良い、くらいに考えている。
その分、テニスやランニングの靴とか、車とか、「走れれば何でも良い」では収まり切らないものがある。幸せ感が、幾らにも膨れ上がって帰ってくるのだから、決して高くはないのだ。幸せを買うのだ。つまり価値を買っている。ロードバイクだって然り。
「一番」を目指す
成金的に、何でも片っ端から買い漁ることが幸せに直結しているわけではないし、第一みっともない。そんなことくらいは分かっているつもりだ。
だから、本当に必要で、どうしても欲しくて、これこそが自分を幸せに導いてくれるのだ、と思える「究極の一品」を選ぶ目を持つべきで、そのへんがどうしてもユルイと言うか、甘くなってしまうと、それはもう大した価値もないモノで溢れかえる状態へまっしぐらである。
つまり「一番」にこだわった方が良い。「二番なら要らない」くらいの潔さが、研ぎ澄まされた感覚を維持するために必要なのだ。
まとめ
「モノがあれば幸せになれる」なんて、本気で思っている人は少ないだろう。終戦直後の世界とはもう違う。
感動する、ときめく、という心の動きが、人間にとって一番重要な価値なのは明白である。それがあるからこそ、人生が好転するきっかけとなる。
近藤麻理恵さんの「人生がときめく片づけの魔法」が、大ベストセラーとなったのは何年も前になるが、やはり今でも、「深いなぁ…」と感心させられ通しなのである。
「ときめかないものは捨てる」とは、何とも痛快で、潔い。
森下昌彦(えむもりさん)
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